2017年08月15日

家(戦車)を護りたかった男『フューリー(Fury)』2014年/米国/映画/感想

今日8月15日は、昭和天皇が太平洋戦争の敗北宣言を国民に向けラジオで行った日だ。

「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」

そう口にする天皇の肉声を国民が初めて聴いた日でもある。

100年も経っていないのに何語だか分からない


そもそも何故日本は戦争をしたのか?

そんな風に思う自分がいる。

独自に生み出した技術などほとんど世界には通じないうえ、資源だって当時から貧しかったはずなのに、何処でどう勘違いに至ったのだろう?不勉強な僕には、まるで理解出来ない大人の事情とやらが存在したに違いないが、後から見ればただただ愚かな行為でしかない。

でも、今を生きるのに必死な者に遠い未来を予測することは出来ないし、もし予測することが出来たとしても、世の流れを変えるのは容易なことではない。まるで当時の日本のようにアメリカと戦う姿勢を見せる北朝鮮も、引き下がれない場所まで流れ流れて行きそうで不安だ。

もし戦争になったとしても、残るのは虚しさばかりだろうに......





フューリーは、まもとな戦力も整わない中、連合軍の攻勢に合わた行軍を余儀なくされた戦車小隊の物語。兵士や戦車の補充もままならない前線で役に立つのは経験と根性だけという状況で、最後の足掻きと言わんばかりに抵抗するドイツ兵相手にそれだけで足りるわけもなく次々と仲間の戦車に犠牲が出て、彼らは大部隊を前に壊れた戦車1両で戦うことになる。

映画の結末は見え透いているし、自己犠牲など陶酔の極みでしかない。見る人によっては過剰に戦場の醜さを表現している(新兵に敵兵の処刑を強要したり、戦車で人を踏み潰したり、手足が機銃で引き千切れるのも当たり前)と酷評しそうでもあるけれど、それだけでバッサリ切ってしまうのは忍びないものが、この映画にはあったような気がした。なんというか、酸いも甘いも知り尽くした父親が、家族と家を護りたいと願うみたいな姿がブラッド・ピット演じる”ドン”にはあって、行為それ自体の良し悪しは関係なく、命を賭けたい物を持っているのが羨ましく思えたのかもしれない。

互いを"Wardaddy”(戦うオヤジ)だの"Machine"(機械)だの”Bible”(聖書)だの”Gordo”(肥満)だのと相性で呼び合う男達を乗せる戦車”Fury”(激しい怒りの意味)はまさに家なのだ。生まれも主義主張も違う者達が、戦車に乗っている間だけは固く結びつくのである。たとえそれが殺し合いに過ぎなくとも、今この瞬間の絆だけは永遠だと信じる彼らの姿は、愚かであるのと同時に愛おしい。






この映画において、良心の象徴のような新兵に「理想は平和だが、歴史は残酷だ」と口にしたドンは、己れの感傷に仲間を巻き込んだ。けして英雄の物語では無い。神亡き戦場で、逃れようもない光景を前に戦うとは、こういうなのだろうと思った。

美しい陶酔は新たな戦場を生む。果たして、フューリーの陶酔は、新たな火種へと繋がるのだろうか?

少なくとも僕は、血と火薬と泥に塗れた戦車になど絶対乗りたく無いなと思ったけれど....

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posted by lain at 15:04 | 北海道 ☔ | 映画 米国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2017年03月12日

箱舟には乗れそうに無い僕が想う3.11「ノア 約束の舟」ダーレン・アロノフスキー(監督)/ラッセル・クロウ(主演)/感想

無理に思い出す必要は無いのだけれど、3月11日になれば自然と思い出さずにいられない東日本大震災。

僕などは直接的な被害という被害に逢っていないため、あの震災についてあれこれ口にすることすら少し躊躇われるが、誰もが途方にくれるような光景がテレビで流れて来たのを目にした時の衝撃は忘れ難い。あんな一瞬の出来事で、1万人以上の命が損なわれただなんて、今考えても恐ろしい.....


他に数字が取れる絵があれば、それを優先するテレビ局。新しいニュースばかりを追うネット大手。それらに頼り切っている僕らは、正直被災地が今どうなっているかほとんど知る由もない。人口が更に減ったとか、いまだに遺体を探す民間団体がいるとか、廃炉作業が難航しているうちに環境被害が拡大しているとか、そういった情報は入って来るものの、”そこ”で生きる人達そのものの姿がイマイチ伝わってこないのはもどかしい。

何年かかってでも、あの地に本当の笑顔が戻ったなら、もう少しマシな日本になれるのかもしれない....



震災後、様々な場所で地震や洪水を扱った作品の取り扱いを避けていた。被災者や震災でショックを受けた人々への配慮だったわけだが、もしもこの映画が2011年に公開予定であったなら、絶対公開取りやめの憂き目にあっていたことでしょう。

なにせ、世界を血と欲で汚す人間を海に沈め、もう一度動物達だけの楽園からやり直そうとする話なのだから....





ノアの箱舟というと、神がノアというおっさんに命じて舟を作らせ、自分好みの生き物達だけを救済しようとしたという大昔を舞台にした物語なわけだけど、こうして映画として咀嚼してみると、実に遠い未来のディストピア物に感じた。土は痩せ、木は枯れ、どんよりした空の下、何も残っていない風景の連続には、マッドマックスも顔負けの重苦しいものがあった。

人間を哀れんで自らも堕とされてしまった岩の姿をしている天使達のCG表現のB級映画っぷりや、神の啓示を受けるような男が死体を足蹴にしたり見事な殺人技を披露することへの違和感で少々気持ちが萎えたりもしたけれど、慣れて来ると岩の化け物でしかない堕天使達が愛おしく思えて来たし、聖人とはかけ離れたノア像にリアリティを感じて、そこそこ心に響く物があったように思う。パトレイバーの劇場版に登場する世界に絶望した男達同様に、人間の暴挙に落胆して神の望むまま、助けを求める人類を見殺しにし、自らと愛しいはずの家族の命すら最後には滅しようとするノアという男を愛さずにはいられない自分がいた。

各方面から反応があったというのも頷ける際どい脚色の結果、失った物もかなりあったのかもしれないが、世界中で自分と自分の家族だけが生き残るという極限状態なら、これくらいの狂気の一つや二つあって然るべきとも思う。もしも自分や家族だけがこの世界の生き残りになったとしたら、どう感じるのだろうか?いくら子孫を残すためとはいえ、兄弟や親とセックスするなんて嫌だろうな...と、真っ先に考えた僕は、まず間違いなく箱舟に乗れはしないんだろうね.......


あの津波で亡くなった人たちが、亡くなる寸前何を考えたかなんて思いもよらないけれど、自分がこの世界に無用な存在として神に罰せられただなんて思ったままこの世を去っていなければ良いなと思う。

そして、こんな仕打ちをしてくる地球であっても、命をくれたのも地球なのだということを忘れず生きて行こうと思った....





ノア 約束の舟 公式ウェブサイト
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posted by lain at 10:10 | 北海道 ☔ | 映画 米国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2017年01月23日

神が語らないから人が語る。ただただひたすら虚しい日々を「沈黙 -サイレンス-」マーティン・スコセッシ(監督)/遠藤周作(原作)/感想

僕は宗教に入っていない。入りたいとも思わない。

子供の頃、辛い事があると、どうにかならないものかと都合良く神様にお願いした経験くらいはあるが、今じゃすっかり宗教を立ち上げて金儲けしたいなぁ〜と思うほどの不心得者である。



だから、本作で弾圧される切支丹の苦悩も分からないし、彼らを拷問してまで棄教させたがる日本人の気持ちも分からない。







島原の乱後の日本における苛烈な切支丹弾圧を題材にした遠藤周作の「沈黙」が原作で、尊敬する神父が日本で棄教したとの知らせを受けた二人の若い神父が、頼りない日本人ガイドと一緒に真偽を確かめる為に日本へ乗り込み、弾圧の実状と棄教した神父の真意に触れ苦悩する話。

極力情報を頭に入れず、塚本晋也さん目的で映画館に出向いたため、ここまで日本人だらけの映画だとは思っていなかった。冒頭で拷問されている切支丹や、日本に乗り込んで来る神父も含め、目の色が我々と違う人種は10人出て来るかどうかで、後は馴染み深い日本人役者が勢揃い。外国映画にありがちな見た目だけの似非日本人でないから普通に日本映画に見えた。

しかし、間の取り方や自然の奏でる音を活かすセンスは日本人の感性とは一味違い、塚本晋也監督の「野火」のように人の業と関係なく存在し続ける自然の厳かな存在感が良い映画だと思いました。特に塚本晋也さん演じる男が海で磔にされているシーンは忘れられそうにない.......



塚本晋也さん自身が野火に通ずる物があると断言していただけあって、確かに最後に残るのは虚しさから溢れる溜息でした。ただ、正直後半の1時間近くは、僕にとって少々くどかった。再三踏み絵云々が持ち出され、くどくどと同じことを繰り返している(踏み絵を行えない者を拷問、行っても疑わしい者は拷問、そして主人公である神父が棄教しないことを理由に信徒を拷問。そしてそんな自分たちを棚に上げて信じる物を大事にしたいのはお互い様だと口にするお役人達、という構図が何度も続く)ように感じました。僕が切支丹であれば、もっと主人公の苦悩に共感出来たのでしょうか?

切支丹が崇める神を、何か違う物に置き換えて考えれば、彼らがあれだけ苦しむ理由もそれなりに想像出来るものの、命に代えてまで大事にしたい物などやはり僕には無いかもしれない。無論権力に頭を押さえられ「こうしろ」とやられるのは我慢ならないが、死んでまで守る誇りなど何処を探しても出て来そうにありません。

そもそも、自分の信じる物を大事にしたくて死を受け入れるというのは、本当に神を大事にする行為だと言えるのでしょうか?パンが無ければケーキを食べれば良いじゃ無いとは言わないが、何も応えてくれない神の奇跡を願う暇があったら、自分に出来ることをした方がよほど神に近づけそうな気がしてならない。まあ、あの時代の人々は普通に生活するのも困難で、精神的に追い詰められていたのもあるのでしょうね。いつでも無駄にカロリーを摂取できる僕には到底理解出来るはずもないのです.......





信じる者は救われる

確かにそうだろう。心底信じられる物を持つ人は強く、心に迷いが無い。

でも、心に迷いがあるからこそ信じたい気持ちは生まれるのだと思うし、第一迷いが無い人間なんて面白みに欠ける。いっそ恐ろしく見えることすらある。僕は、不完全で不健全で、信じたいけど信じきれない弱さをこそ愛したい。


そういう意味においては、この映画は愛と哀に満ちた素晴らしい映画でしょう.........







追伸、イッセー尾形は至宝。









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posted by lain at 06:57 | 北海道 ☔ | 映画 米国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする