死に近づく日に感謝の言葉を

先週末の土曜日の肉の日、42度目の誕生日を迎えた。

その日も普通に働き、普通に草臥れて帰宅したわけだが、普通に日付を記入するような事務仕事もこなした割に、自分の誕生日であることに気づきもせず、帰宅後家族に言われてようやく思い出した。日頃から自分の誕生日なんてどうでも良いと言い続けて来たが、とうとう気づかない程どうでも良くなって来たようである。


「誕生日を迎えると云うことは、死に一歩近づいた証拠でしかないのに何がめでたいのか?」



これまでそう嘯いて来た。それは本心でもあるし、逃れられない真実でもある。でも生まれてきたことを肯定する意味での「おめでとう」があることも分かっている。そしてその手の言葉に最近弱い。独り強がっていられる季節は、とうに過ぎ去ってしまった。42歳とはそういうものなのだ。

Twitterで誕生日を失念していたと素直に呟いた土曜の夜、正直”いいね”すら期待していなかった。何せ土曜の夜だ。ほとんどの人は休日である。呟きを逐一見ている暇などないだろう。にも関わらず数人の方が返信までくれた。「おめでとう」と。年下のフォロワーはいつもより堅く、同年代に近い人はざっくばらんに言葉をくれた。普通に嬉しい誤算だった。

Twitterを始めて10年経ち、親しくしていた人のほとんどは呟かなくなったり、方向性がズレて絡んでくれなくなった。こちらからの一方的な”いいね”しか存在しない相手もいる。こちらの呟きに興味がない、もしくは不快だと云うなら解除なりブロックなりして欲しい無反応の相互フォローの方も増えたが、そう言っている自分も、そうしないのだから不思議な距離感である。



どんな形であれ、繋がっていることに安心を得ているのだろう。どんなにスタンドアローンでありたい、自分はそれで大丈夫と思っていても、心の深いところでは誰かや何かを頼ってしまう自分がいる。身体以上に心を蝕むコロナ渦であればこそ、強くそう感じる出来事だった。




おめでとうを云える全ての人に、おめでとうが届く世界でありますように。

そう祈るくらいは許されそうな気がした。