家(戦車)を護りたかった男『フューリー(Fury)』2014年/米国/映画/感想

今日8月15日は、昭和天皇が太平洋戦争の敗北宣言を国民に向けラジオで行った日だ。

「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」

そう口にする天皇の肉声を国民が初めて聴いた日でもある。

100年も経っていないのに何語だか分からない


そもそも何故日本は戦争をしたのか?

そんな風に思う自分がいる。

独自に生み出した技術などほとんど世界には通じないうえ、資源だって当時から貧しかったはずなのに、何処でどう勘違いに至ったのだろう?不勉強な僕には、まるで理解出来ない大人の事情とやらが存在したに違いないが、後から見ればただただ愚かな行為でしかない。

でも、今を生きるのに必死な者に遠い未来を予測することは出来ないし、もし予測することが出来たとしても、世の流れを変えるのは容易なことではない。まるで当時の日本のようにアメリカと戦う姿勢を見せる北朝鮮も、引き下がれない場所まで流れ流れて行きそうで不安だ。

もし戦争になったとしても、残るのは虚しさばかりだろうに......





フューリーは、まもとな戦力も整わない中、連合軍の攻勢に合わた行軍を余儀なくされた戦車小隊の物語。兵士や戦車の補充もままならない前線で役に立つのは経験と根性だけという状況で、最後の足掻きと言わんばかりに抵抗するドイツ兵相手にそれだけで足りるわけもなく次々と仲間の戦車に犠牲が出て、彼らは大部隊を前に壊れた戦車1両で戦うことになる。

映画の結末は見え透いているし、自己犠牲など陶酔の極みでしかない。見る人によっては過剰に戦場の醜さを表現している(新兵に敵兵の処刑を強要したり、戦車で人を踏み潰したり、手足が機銃で引き千切れるのも当たり前)と酷評しそうでもあるけれど、それだけでバッサリ切ってしまうのは忍びないものが、この映画にはあったような気がした。なんというか、酸いも甘いも知り尽くした父親が、家族と家を護りたいと願うみたいな姿がブラッド・ピット演じる”ドン”にはあって、行為それ自体の良し悪しは関係なく、命を賭けたい物を持っているのが羨ましく思えたのかもしれない。

互いを"Wardaddy”(戦うオヤジ)だの"Machine"(機械)だの”Bible”(聖書)だの”Gordo”(肥満)だのと相性で呼び合う男達を乗せる戦車”Fury”(激しい怒りの意味)はまさに家なのだ。生まれも主義主張も違う者達が、戦車に乗っている間だけは固く結びつくのである。たとえそれが殺し合いに過ぎなくとも、今この瞬間の絆だけは永遠だと信じる彼らの姿は、愚かであるのと同時に愛おしい。






この映画において、良心の象徴のような新兵に「理想は平和だが、歴史は残酷だ」と口にしたドンは、己れの感傷に仲間を巻き込んだ。けして英雄の物語では無い。神亡き戦場で、逃れようもない光景を前に戦うとは、こういうなのだろうと思った。

美しい陶酔は新たな戦場を生む。果たして、フューリーの陶酔は、新たな火種へと繋がるのだろうか?

少なくとも僕は、血と火薬と泥に塗れた戦車になど絶対乗りたく無いなと思ったけれど....