2017年01月23日

神が語らないから人が語る。ただただひたすら虚しい日々を「沈黙 -サイレンス-」マーティン・スコセッシ(監督)/遠藤周作(原作)/感想

僕は宗教に入っていない。入りたいとも思わない。

子供の頃、辛い事があると、どうにかならないものかと都合良く神様にお願いした経験くらいはあるが、今じゃすっかり宗教を立ち上げて金儲けしたいなぁ〜と思うほどの不心得者である。



だから、本作で弾圧される切支丹の苦悩も分からないし、彼らを拷問してまで棄教させたがる日本人の気持ちも分からない。







島原の乱後の日本における苛烈な切支丹弾圧を題材にした遠藤周作の「沈黙」が原作で、尊敬する神父が日本で棄教したとの知らせを受けた二人の若い神父が、頼りない日本人ガイドと一緒に真偽を確かめる為に日本へ乗り込み、弾圧の実状と棄教した神父の真意に触れ苦悩する話。

極力情報を頭に入れず、塚本晋也さん目的で映画館に出向いたため、ここまで日本人だらけの映画だとは思っていなかった。冒頭で拷問されている切支丹や、日本に乗り込んで来る神父も含め、目の色が我々と違う人種は10人出て来るかどうかで、後は馴染み深い日本人役者が勢揃い。外国映画にありがちな見た目だけの似非日本人でないから普通に日本映画に見えた。

しかし、間の取り方や自然の奏でる音を活かすセンスは日本人の感性とは一味違い、塚本晋也監督の「野火」のように人の業と関係なく存在し続ける自然の厳かな存在感が良い映画だと思いました。特に塚本晋也さん演じる男が海で磔にされているシーンは忘れられそうにない.......



塚本晋也さん自身が野火に通ずる物があると断言していただけあって、確かに最後に残るのは虚しさから溢れる溜息でした。ただ、正直後半の1時間近くは、僕にとって少々くどかった。再三踏み絵云々が持ち出され、くどくどと同じことを繰り返している(踏み絵を行えない者を拷問、行っても疑わしい者は拷問、そして主人公である神父が棄教しないことを理由に信徒を拷問。そしてそんな自分たちを棚に上げて信じる物を大事にしたいのはお互い様だと口にするお役人達、という構図が何度も続く)ように感じました。僕が切支丹であれば、もっと主人公の苦悩に共感出来たのでしょうか?

切支丹が崇める神を、何か違う物に置き換えて考えれば、彼らがあれだけ苦しむ理由もそれなりに想像出来るものの、命に代えてまで大事にしたい物などやはり僕には無いかもしれない。無論権力に頭を押さえられ「こうしろ」とやられるのは我慢ならないが、死んでまで守る誇りなど何処を探しても出て来そうにありません。

そもそも、自分の信じる物を大事にしたくて死を受け入れるというのは、本当に神を大事にする行為だと言えるのでしょうか?パンが無ければケーキを食べれば良いじゃ無いとは言わないが、何も応えてくれない神の奇跡を願う暇があったら、自分に出来ることをした方がよほど神に近づけそうな気がしてならない。まあ、あの時代の人々は普通に生活するのも困難で、精神的に追い詰められていたのもあるのでしょうね。いつでも無駄にカロリーを摂取できる僕には到底理解出来るはずもないのです.......





信じる者は救われる

確かにそうだろう。心底信じられる物を持つ人は強く、心に迷いが無い。

でも、心に迷いがあるからこそ信じたい気持ちは生まれるのだと思うし、第一迷いが無い人間なんて面白みに欠ける。いっそ恐ろしく見えることすらある。僕は、不完全で不健全で、信じたいけど信じきれない弱さをこそ愛したい。


そういう意味においては、この映画は愛と哀に満ちた素晴らしい映画でしょう.........







追伸、イッセー尾形は至宝。









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posted by lain at 06:57 | 北海道 ☔ | 映画 米国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする