2016年11月05日

命は与える物でも奪う物でもない。じゃあなんなの?「Dr.キリコ 白い死神 1巻」 手塚治虫(原作)/ 藤澤勇希(脚本)/sanorin(漫画)/感想

 この世界には、常に対照的な存在がいる。光と陰、水と油、アムロとシャア、のび太と出木杉くん、大谷翔平と斎藤佑樹、イスラムとキリスト、社会主義と資本主義、そして生と死。物質から架空の人物、更には主義主張に至るまで例外はない。

 しかし、それらは相容れないように見えて、その実、共通性があったり互いを必要としているような節がないでもない。医者のくせに治すより死なせる方が得意なキリコにしても、最終的な答えが違うだけの話で、”そこ”に至る過程はなんらブラックジャックと変わることが無いのである。






 日本では犬や馬を死なせるルールはあっても、人間による自主的な死を赦すルールはなく、当然安楽死は認められていない。世界的にも様々な意見があって難しい話ではあるけれど、何故本人の意思や親族の判断で苦しみを終わらせることに不都合があるのだろう?公的に認めてくれないから薬を飲んだり飛び込んだりするのではなかろうか?

 これまで何度となく、ただ装置に生かされているだけの人達を目にしてきた。笑うことも泣くことも、寝返りを打つこともなく、幾重もの管が繋がったままの四肢を横たえる様は、まるで人体実験のようで気持ちの良いものではない。だから、いっそ死なせてやりたい。いや、死んで欲しい。そんな風に考えてしまう人の気持ちも少なからず分かる。

 安楽死がなかなか認められないのは「自分が辛いからと言って死んで(殺して)良いのか?」という精神論を押し付けようとする人達が根強いからかもしれない。誰もが同じように生きられるわけでも無いのにである。子供の頃、愛は世界を救うと信じ、自己犠牲の美しさに酔っていた僕は、 いつの間にか死にたい人は死ねば良いと思うようになっていた。心から死を望む人などおらず、自殺した人でさえ最後の瞬間には「生きたい」と思ったはずだと信じて疑わないが、死にたい人を無責任に引き留めるのも何か違う。それに、何かと個人の意思がままならない世の中で、訳も分からず与えられた命を自ら大地へ還すというのは、死んだように生きているより、よほど生きようとする行為なんじゃないかと最近は思う。




 全然この漫画の話をしていないが、少々絵柄やプロット、キリコのキャラクター造形が甘い気はするものの、本来ならば悪でしかない命を奪う者キリコを読者に愛して貰いたいという気持ちが篭った作品になっていると思った。高齢化社会を迎えた今の日本にキリコが居たら、仕事に事欠かないだろうな......

 間 黒男と絡む回が楽しみだ。









タグ:手塚治虫
posted by lain at 07:15 | 北海道 ☔ | 映画 全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする