2016年10月15日

生きる為に死に、死ぬ為に生きる「イデアの影」森博嗣/中央公論新社

 コミック版「黒猫の三角」で出会ってから、森博嗣さんには様々な美しい光景を見せて貰った。

 学者や泥棒、戦闘機乗りに侍、人妻から殺人犯に至るまで、森先生の手にかかれば歩くポエマー状態で、なすがままにしているだけなのに生き方がこうも美しくも儚くなるものかと溜息が漏れる。

 本作の主人公である女性も、並の作家なら心が壊れた可哀想な人で切り捨てそうなところを、生死を超えた自由な存在へと昇華させていて、物悲しさ以上に憧れを彼女に覚えてしまうほどだった....



彼女は病院にいる。館を離れ、あの家政婦から逃れ。彼女は思う。彼らとの出会いと別れを――理知的でリリカル、不可思議で繊細。ガラス細工のような、森博嗣の「幻想小説」。

by 中央公論新社HP



 おそらく宮崎駿監督の「風立ちぬ」前後のレコードや田舎のサナトリウムがキーワードになるような時代のお話で、家政婦や秘書、通訳まで雇える社長の妻が主人公。別に驚くべき出来事が起こる作品ではなく相変わらずの淡々とした展開からの心理描写で見せる内容なので気にせず展開を話してしまえば、籠の中の鳥状態で飼われている主人公が誰かと親密になる度人が死に、彼女の中の何かが少しずつ変化して最後には......といった感じ。 毎度彼女が新しい生き甲斐を見つけそうになると、それが失われるため、この先何やら怖い展開での待っているのかと、少し身構えていたりもしたけれど、終わってみれば不憫な人妻と一緒に不自由な生からの解放を味わい、ほんのりセンチな気分になっていた。


 『神様から命をお借りして、この死というものを体験させてもらう。そんなツアーを、人生と呼ぶのだ。』



 作中度々使われる神様から命を借りているとの言葉が印象的で、生き死にに怯え暮らすより、どうせ拾った命なら存分に楽しめというメッセージを僕は感じた。人によっては後ろ向きな内容だと受け取るかもしれないが、生き続けることが死に向かう行為であるのは覆せない事実であるし、それならばどう死ぬかどう生きるかも等しい価値を持ち合わせていると言って差し支えないのだから、死ぬことすら心底望むなら前向きな行為なのだろう。

 何にせよ、「生きている」というのは烏滸がましい意識だ。せいぜい「生かされている」が僕らに赦された表現だ。

 生かされているうちに、自分なりの前向きな死を見つけられたら、今よりマシな生き方が出来そうな気がする秋空だった。



タグ:森博嗣
posted by lain at 07:15 | 北海道 ☔ | 小説 森博嗣 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする