出来ることをしないひと、出来ないことをするひと「火垂るの墓」野坂昭如(原作)/高畑勲(監督)/感想

ようやく北海道も春らしくなり、そろそろ車の整備もしなくてはと、ガソリンスタンドまでオイル交換に行った。

同じように考えた人が多いのか混み合っていたのだけど、タイミングが良かったようで待ち時間がそれほどかからず終了。

待っているうちに読んでいようと買ったKindle版「火垂るの墓」も全然読めなかった。




初めて読む野坂昭如さんの文体は、読み難いというかなんというか新鮮だった。普通なら「◯ ◯を◯◯」と書くところの”を”抜いて書いていたり、今起こったことを印象付けるため行を変えるというようなこともせず、客観的に事実を流れるように書いているので、あざとい感じがまるでしない。今思えばこれほど高畑勲さんにぴったりな作品もなかっただろう。

丁度先週の金曜日、日テレでは追悼番組として火垂るの墓が放送されていた。うっかり見始める前に寝落ちし、後半しか観ることが叶わなかったものの、何度観ても考えさせられる作品だなと思った。確かに主役である兄妹(清太と節子)は可哀想なのだが、我欲を通すという点においては彼らを一時的に引き取った叔母と、その家から妹を連れ飛び出した清太はなんら変わらず、せいぜい”大人なのだから子供の世話をして当たり前”という固定観念の差しかない。

いつの世でも子供の世話をしたくない大人はいるわけで、それが戦時であれば尚のこと足手まといに感じるのも仕方ない話かもしれない。自分がそういった状況に置かれたことがないのに、一方的に清太達の叔母を責めるのはお門違いだろう。あんなに冷たい態度をとった叔母にしても、後悔したり気に病んだりしていたかもしれない。その後も様々な大人と清太達は遭遇するが、清太は助けを求めず自分の世界に引き篭もるようにして事実から目を背け、ようやく現実を受け容れた時には手遅れだった。戦争が悪い、大人が悪い、じゃあ自分が悪くても良い。それはちょっと違う話である。自分に出来ることをやらない人は確かに罪深い。でも、自分に出来ないことをやろうとするのは愚かでしかないのだ。




誰かの罪を追求するのは正直どうでも良い。清太や節子のような境遇に子供たちを追いやらずに済む社会にして行くことこそ第一にすべきことなのだ。

彼らが目にすることが叶わなかった今の日本の姿。

果たして僕らは胸を張って見せることが出来るだろうか?......


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posted by lain at 10:05北海道 ☔アニメ