ボクヲ アナタヲ テラシダス「あまざらし 千分の一夜物語 スターライト」amazarashi

矛盾だらけの世界に掛けられた魔法で、もがき苦しむ人々の陰鬱な想いと、その苦しみの中でも僅かに差し込んで来る希望の暖かさを代弁しているかのような男”秋田ひろむ”は、今を生きる多くの人の拠り所になっている。

美しい日本語の情緒を随所に感じる歌詞と、時に激しく時にしっとりと聴かせる緩急の付いた作曲とのバランスが絶妙であること、そして一番大きいのは秋田ひろむの楽曲に対する姿勢だと思う。仕方なく誰かにやらされているわけでもなく、作り上げた曲と真剣に向かい合い、自分の存在を殺してでも作品世界のイメージを届けようとする彼の姿はすこぶるプロフェッショナルだ。

つい先日出たばかりの、去年行われた「千分の一夜物語 スターライト」の模様を収録したDVD(アンプラグドアレンジ盤の初回限定に付属された特典)を観ていてつくづくそう思った。



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絵になる朗読姿
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ストリングスの演奏をオーバーラップさせる編集がじわじわ来る68D54453-94CF-48B7-9A60-16B7FAD3FEF9.jpg16EBA111-6760-46E5-A33D-66077284D6A4.jpgCAFB3CF2-E040-4D96-A02B-D34B75B2537C.jpg
いつもの映像や、詩の朗読中に大量のメトロノームを鳴らすなど、演出面が更に成熟して来た





 ストリングス中心のバンド編成でamazarashiを代表する楽曲の数々と共に、秋田ひろむによる詩の朗読が行われたこのライブでは、いつもの曲達が一味違う洗練された厚みの曲に生まれ変わっていて、原曲が刺々しいものまで”まろやか”で上品な味わいになっているものだから、散々聴き込んだはずの楽曲達に違う一面があることに気づいて新鮮。

 アコースティックな旋律に自分の声を乗せるのは誤魔化しが効かないので、アーティストの自力が良く分かるものですが、バックの表現力に負けずじっくり歌い上げる秋田ひろむは流石でした。

 いつ暴発するか分からないような切実さに面食らって、amazarashiの楽曲と距離を置いているような音楽好きさんなどは、今回の『あまざらし 千分の一夜物語 スターライト』でもう一度触れて見ると良さを発見出来たりするかもしれない。

それにしても、メインのアンプラグド音源CDより、特典DVDがやばい逸品でした。


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DVDの他に、360°見回せるパノラマ映像を楽しめる眼鏡とコンテンツ解放キーが入っていました。374C135C-018F-4648-BE61-2AE49FF6E88F.png00195434-7CEC-4B30-9A0A-ED31D278FEA6.png85FFD67D-A43C-4F94-B6E7-E44053EC874D.png
空から地上まで見渡せるイラスト&朗読であったり、スモークの動きやお客様まで見ることが出来る映像もあって面白い





 何をもって”大人”の定義とするかは難しいけれど、また少し秋田ひろむは大人になったと僕は思う。良くも悪くも自分と世界を許せるようになって来たような気がするから。

 次は3D映像を使ったライブを行うとも聞くし、これからも表現者として、そして人としてのステップを秋田ひろむとamazarashiは駆け上がってゆくに違いない。

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posted by lain at 07:11北海道 ☔Comment(0)音楽

理由いつも後ろに付いて来る『アナザーストーリーズ「アイルトン・セナ事故死 不屈のレーサー 最期の真実」』

いつものように朝起きて、あれこれと準備しつつ、そういえば昨夜アイルトンの事故について特集した番組を録画しておいたのがあったなと朝食を食べながら見始めたのだが、様々な人達がセナについて語る様子に涙を堪えられず瞼が腫れぼったいまま会社である。

近い場所でセナを見守ってきた広報官の女性や、バッジョがPKを外しワールドカップ優勝を決めた時、セナを讃える横断幕を掲げたブラジル代表選手達。セナ亡き後、ブラジル国民の期待を一身に受けて苦しみもがいたバリチェロ。そしてセナの遺体と唯一対面した日本人記者。彼等がセナから受け取った物の大きさを想うとまた泣けてくる。



本当に必要とされていた

本当に愛されていた。

本当に速かった。


でも、僕らと同じ人間だった。




ただ少し違ったのは、誰よりも速くありたいと言う強い気持ちと、繊細過ぎた感性。

大抵誰しもひたすら目標へ真っ直ぐ向かっている時は歯車がしっかり噛み合うもの。だが一度それが乱されるとまるで機能しなくなるものである。だから、セナのような大胆かつ繊細なドライバーが少しでも心を乱したりすれば、それこそ走りに大きな影響が出るはずだ。


セナの事故からだいぶ経った今だから言葉に出来ることかもしれないが、事故でセナが亡くなったと知った時、心の片隅にこれはセナが望んだことなのではないか?という気がしていた。

バリチェロとラッツェンバーガーの事故が起きた直後、このグランプリへの不信感を露わにしていたセナの精神状態からして「ほらやっぱり危険だったろ?」と、わざと自分が事故って見せるくらいのことをして見せたのでは無いか?という考えが浮かんだのだ。事故の真相もはっきりしなかったため、尚更そんな発想が湧いたのかもしれない。

でもきっとそれは違う。単純に戦う準備が出来ないまま戦場へ脚を踏み入れたことが大きな原因だったことだろう。起こるべくして起きて、たまたまそれが取り返しの付かない結末に繋がっただけなのだ。





あれからF1はより速く、より安全になった。

ドライバー達は心の準備が整わずとも、それをマシンがサポートするから平気で戦えるし、誰かが傷つく恐れもほとんど無いから僕らは安心してレースを観ていられる。僕らに心の準備は一切必要無い。

だが何の憂いも無いはずのF1は何処か味気ない。


そこにセナが居ないからでは無い、おそらくマシンが電子制御され過ぎたため、ドライビングからドライバーの個性が見え難くなったからだと思う。

ルールの枠内で限界を目指せば誰もが同じ答えへ辿り着くのが当然ではあるけれど、それでは最後に行き着く場所に人間は不要になってしまう。

人馬一体という言葉が乗馬にはある。文字通り人と馬が一体になったかのように見える様子を表した言葉だ。

異なる種族。異なる魂が共鳴しあって成し遂げる人馬一体とは少し違うけれど、F1だって大勢の想いが同じ方向を向いた瞬間の一体感は素晴らしい。あくまでも機械は道具、魂と魂とが織りなす情景だからこそ胸が熱くなる。

だから機械の進歩と共に個性が死んでゆく今のF1が切ない。まだ人が機械を制していた時代の英雄の死は、僕にとってのF1の死そのものだったのかもしれない。




何をもって「魂」とするかは、これから先難しくなって行くかもしれないけれど、セナを忘れずにいられたら、自分の魂の在処だけは見失わずにすみそうな気もする、是非そうありたいものだ...





どうでもいいが真木よう子の司会っぷり堅すぎて微妙であった....




posted by lain at 08:56北海道 ☔Comment(0)てれび

チャンネルを自分に合わせる時代に何が必要なのか?

寝ぼけながらも今朝のYahoo記事をチェックしていたら、未だ低迷期にあるフジテレビと縁の深いニュースが目に付きました。

AKB総選挙


豊川悦司再婚

ダイジェストだけなF1...



既にAKB集中というよりは、分散状態にあるアイドル人気。好き嫌いを通り越して執着することに”執着”してる人ばかりが気にしている総選挙なんてゴールデンで放送する意義をあまり感じない。豊川悦司の再婚にしたって、別に私生活が気になって、彼の出演作品を観るわけではないので、演技さえちゃんとしてくれればどうでも良いことだ。


ただ、豊川悦司さんが既に53歳であった事実には驚いた。というかびびった。もうそんなになるのかと。

思春期の頃、お茶の間の夜9時台10時台を我が物顔で奪っていたフジテレビに豊川悦司さんも出演していたものだが、あの落ち着き払った風情と存在感に大勢が夢中になってましたよね。トヨエツとか呼んでたよな姉達も....

僕は特に「この世の果て」が好きでした。様々な男女が絶望を抱えつ複雑に絡み合う本作で、主役では無いが重要な咬ませ犬として良い演技を見せていました。当時全盛の役者が軒並み顔を揃えてもいたし、野島伸司脚本たまらんですよ。

渋さとのギャップも面白い人ですよねトヨエツ





後はそう、最近興味が湧かないF1だけど、ダイジェストだけの放送とかどうなんですかね?

スカパーでもパックに含まれるチャンネルでは再放送しか見れないし、どうもフジテレビは「僕の前に道はない僕の後ろに 道は出来る」のだという前向きな意識に欠けるように思えます。数字が悪かろうが、F1人気が低迷していようが、だからこそやらねばならない、いや、やるぞ!という気概を感じません。


日本でテレビ放送が開始して60年以上経った今、散々使い古されたネタ、手法ばかりで番組作りは難しくなってしまったかもしれないけれど、気持ちで負けなければ自然と数字もお客もついて来るはずですし、適当に他局の手垢にまみれた内容の番組を作る暇があったら、しっかりとマーケティングをして必要される番組、必要として貰える番組を目指してセンスを磨いて欲しいものです。






と、勢いで適当なことを書いて来ましたが、正直フジテレビがどうの言うよりテレビ自体にそこまで魅力が無いのでは無いかというのが僕の正直な認識ではあります。例えばニュース番組にしたって、時間枠の中にどれだけ自分に必要な情報があったか考えると首を傾げてしまうし、知性を感じないお笑い芸人の稚拙さをダラダラと垂れ流すバラエティも面白く無い。自分の生活リズムに合わせ、レコーダーによる録画やネット配信での視聴が当たり前になって、番組の合間にCMを入れる意味が失われ本編が広告の代わりになっているような本末転倒番組も多々見られます。

ズバリ「今」見たいと思ったものを見れないからこそテレビの勢いは落ちているのだと思います。情報だけならネットの応答力に敵いませんしね。

予算が無ければ作れない内容の番組もあるだろうし、今もっともテレビに必要なのは有料化な気がしてなりません。有料化すればスポンサーの顔色をそこまで窺う必要も無く番組を作れるようになるし、番組の面白さは加入者の数で判断出来るようになるから、視聴者の中から抜き出した形で視聴率を計る怪しげなビデオリサーチに頼る必要も無くなります。


この不景気に有料化して、本当に作りたい番組を作り、見たい番組を見れるようになるのか?それはやってみなければ分かりません。

少なくとも僕がアニメ以外の地上波番組にほとんど興味が湧かない理由だけはまず解消されると思います。



皆はテレビにどう変わって欲しいだろう?

もしくは変わって欲しく無いだろうか?



お金とやる気が有り余っていた時代が死に絶えて久しい世の中で、何が生まれ残ってゆくのか考え出すと、期待より不安で胸がいっぱいになってしまう自分が寂しい台風の日でありました🌀



posted by lain at 07:15北海道 ☔Comment(0)てれび